怒らない人のたった一つの言葉の習慣
投稿日:2026年3月4日 / 最終更新日:2026年3月4日
穏やかに生きる人は「私」を主語にしない
感情に負ける。
60歳を過ぎても、負の感情に負けそうになる。
ときどき負ける。
相変わらずイライラする。
怒りを表に出してしまう。
他人に暴力をふるうことはないけれど、
物に当たってしまうことがある。
自分で人格障害ではないかと疑うことすらある。
それでも、穏やかに生きたいと思う。
そこで、ようやく気づいた。
イライラなどの感情に負けない、
優しい生活がある。
まず一つ目は、「私」「私たち」という主語に注意することだ。
「私」「私たち」という主語を使った瞬間、それ以外の人とのあいだに、目に見えない壁が生まれる。
ピーター・ドラッカーは、リーダーシップの本質についてこう述べている。
優れたリーダーは「私」とは言わず、「われわれ」と言う。
しかし、それは同じ組織の中で語る場合の話である。別の集団の前で「われわれ」を主語にすれば、そこにはすぐに対立の構造が生まれる。
平穏に暮らしたくても、そうならない理由の一つがここにある。「私」「私たち」を主語にした会話の弊害に、私たちはほとんど気づいていない。疑問を持たないまま、日常会話が行われている。
その感覚を、少し感じてほしい。たとえば、
「私、○○党を応援してるの……」
「私、日本人」
「私たち、日本人」
「私、朝食は食べないの……」
「私たち、炭水化物ダイエットしているの……」
こうした言葉を聞いたとき、自然とどこかに境界線が生まれることを感じないだろうか。
では、主語を「私」にしないで、どうやって話すのか。たとえば、次の三つの言葉を比べてほしい。
「私は成長したい」
「成長する私」
「成長にある私」
「私は成長したい」
この言葉では、「私」と「成長」が分離している。さらに言えば、これまで成長してきたという事実すらないがしろにしてしまう言葉になってしまう。
常に「まだ足りない私」を作ってしまう。
「成長する私」
ここでは「私」という主語が弱まり、「成長」という言葉が前に出てくる。実際には「私」は隠れているが、主体は「成長する」という運動である。この言葉づかいは、日常を生きる人間には最も自然なのかもしれない。
毎日は予期しない出来事の連続だ。「日々新た」に生きていれば、新しい経験をし、学び続けているはずである。
「成長にある私」
この言葉では、「成長にある」という状態がどこかで固定されてしまう。どこかで「もう成長した」と立ち止まってしまう可能性がある。
ヘーゲルは、「概念は人間を通して自己展開する」と言った。
たとえば「仕事」という概念。
仕事という概念は、働く人間を通して、さまざまな経験を生み、充実感をもたらす。
さまざまな経験を経て、仕事の醍醐味を人間に味わわせる。
これが概念の自己展開という意味である。
そういえば、コロナ禍になる前の2019年、「定年後2000万円問題」が大きく取り上げられた。
仕事という価値観は、人それぞれ。私にとっては、まったく大問題ではなかった。残念ながらお金持ちではない。小金持ちでもない。
ただ、定年のない祖父母、両親のもとで自営業の家庭に生まれ育った。休まず働く生活に慣れている。一年で休むのは元旦だけ。定年がないため、問題にならないのだ。
今日、税理士事務所の若い担当者が来社された。「税理士は定年がないからいいですね」と言うと、彼は少し驚いた様子だった。そして少し間を置いて、「定年を過ぎた両親も、休みなく働いています」と返ってきた。
少し間が空いてしまったのは、彼がまだ若く、「休みなく働く人生」という価値に共感できない部分があったからかもしれない。
仕事に対する価値観は千差万別。
それでも、定年がなく働ける仕事があるということは、2000万円問題を超えて、幸福なのかもしれない。もちろん、そこには健康という問題も関わってくるけれど。
令和8年。
65歳を迎える2026年3月5日。
平穏に生きるコツ。
少し、掴めたのかもしれない。
「みんなにとって善いことは何か」
そう問い続けることで、普遍の最高峰である『善』に触れることができる。
そこから格知が起こる。『善』は、人間を通して自己展開する。そしてそのとき、人は自分の感情と戦う必要すらなくなる。怒りを抑え込む必要もない。無理に穏やかになろうとする必要もない。
ただ、善に開かれているだけでよい。
そのとき、人ははじめて、静かに穏やかに生きることができるのではないか。
もしかすると、それが 絶対的な幸福 というものなのかもしれない。
























