幸福を見つける目。ストレスが見える目。
投稿日:2025年7月15日 / 最終更新日:2025年7月15日
生きていてもしょうがないんじゃないか?
あのやり方は高度だ。
気づかずに変容する。
クライアント、
まわりの者、
何が起きて、
何が変化したのか、
意識することはできないだろう。
だけれど、
セッションが終わったとき、
心の深いところから変わったことは分かった。
それは、その場にいた者全員が感じたこと。
世界最高のセラピストの技!
単なる“上手さ”を超えた、神様レベルの技術を見た。
生死レベルの矛盾。
生と死との矛盾から人生を導く、ヘーゲルの止揚。
止揚とは、
矛盾や対立するもの同士が、より高次の次元で統合されるプロセス。
そして、止揚とともに最高度の技術――西田幾多郎氏の絶対矛盾的自己同一。
絶対矛盾的自己同一とは、“自己”は、自己と他者、内と外、主体と客体など、本来矛盾するものを「矛盾したまま同一である」という考え方。
それを目の前で見た。
セラピストは。
矛盾という何ものでもない『空』の状態から、
クライアントのテーマを高度なレベルで統合した。
それは、クライアントの言葉でわかる。
世界的セラピストが起こした奇跡。
僥倖。
幸福を見る目。
奇跡の三日間を経て帰宅した。
疲れ切っていたのか。
寝た。
11時間寝た。
少し遅れて、
愛犬の散歩。
そして、妻の仕事を手伝い、
9時の開店を待ってスーパーに買い物。
妻に言われた、
バジル、
パスタ、
土のついたレタス、
父の好物であるカツオの腹を買って帰宅。
日常に戻った。
幸福を摑んだ。
それは、心眼が開いたから。
外側の目に見えるものではなく、
自分の内面や本質を“心の目”で見つめる心眼が開いた。
心眼とは、夢を見る目。
内面に向かう目。
自分の心を見る目。
寝ているときの夢を見る目のことでもある。
夢は日常生活とは違い、
自分の内側で起きていると考えてよいのではなかろうか。
夢は、自分の内側で見る物語だ。
幸福は、その目、心眼を使って見るんだ。
何もすることがなくても、
「まわりが喜ぶ行動をしよう」と思えば、幸福だ。
思うだけで幸福だ。
少し疲れを感じたら、
「まわりを労わる声をかけよう!」
「休むことを優先しよう!」と思えば、幸福だ。
やはり思うだけで幸福だ。
頑張っている人に気づいたら、
心の中でつぶやくんだ。
「努力こそが幸せだなぁー」
「幸せな人を見つけた」と思えば、幸福だ。
そうだ。
思うだけで幸福だ。
心眼を開いて、
心と正しい言葉で会話するんだ。
正しい目で心を見つめるだけでもいい。
優しい目で心を包んでもいい。
心眼を開くんだ。
一時的な幸福は外、永遠の幸福は内。
誰かを喜ばせたくて生きている日常の尊いこと。
たとえば、
当たり前に食べられる食事、
清潔な洋服、
「おはよう」の挨拶。
お金では買えない、紡がれた時間、
愛が交換されるとき、
何気ない言葉を交わすとき。
心の内側に視点を向けたときだけ、
人は絶対に逃げ去らない普遍の幸福を摑むことができる。
外側に見える、変わってしまう幸福に左右されなくなる。
これらは、古の叡智だけれども、
実際に経験してみなければ、
幸福が内側にしかないことを悟ることはできない。
ヘーゲルの止揚。
西田幾多郎先生の絶対矛盾的自己同一。
世界的セラピストである彼の技は、
奇跡ではない。
いつものことだ。
これまでの私が気づけなかっただけだ。
セラピストがクライアントに施した技が、私には見抜けなかったのだ。
見抜けたということは、少しは人生が深まったのだろうか。
外に向かう目を反省にして内側に向けたとき、
見えるとは何を指すのだろうか?
それは後で考えるとしよう。
ストレスを見つけてくれる外を見る目、
そして、幸福を見つける心眼。
謎ですね。