わかるものにはわかる|真善美とお金では買えない価値
投稿日:2026年2月9日 / 最終更新日:2026年2月9日
大それたことを言ったのだろうか。
お金で買えるちっぽけな夢を追いかけて、どうする。
そんなことを言われても、わからない者にはわからない。
私自身も、そんなことをわかろうと試みたことがなかった。
ただ、わからなければ先へ進めないところまで来ていただけだ。
そう考えれば、大それたことを言ったのかもしれない。(笑)
祖父が言っていた。
「家族、仲良く暮らせよ」
七歳の私に、わかるはずもなかった。
祖父は、生まれてすぐに母を亡くし、継母に育てられた。
本来なら裕福な家の跡継ぎだったが、家督を譲り、自ら道を切り開いた。戦争には行けなかった。右目が義眼だったからだ。
そんなことを、祖父が亡くなるときまで知らなかった。それは、私が三十歳の時だった。
祖父の「家族、仲良く暮らせよ」という言葉の背景に、
何かを感じざるを得ない。
彼は、九十一年続く老舗の創始者であり、その想いを家族に残してくれた。嫁いできてくれた妻が、祖父と暮らしたのは一年三か月。その優しさを、私以上に深く刻んでいる。
祖父が残したものは、お金では買えない。祖父のように生きたいとの志も、お金では買えない。
地元で名のある会社の社長が、忘年会で社員に配るお菓子を買ってくれる。理由は、「おいしいものを社員に食べさせたいから」だという。若い頃、祖父から面倒を見てもらったらしい。ある設備関係の会社だけれど、妻の会社の工場で不具合が起きると、いつも無料で点検して修理してくれる。最近では、どうにかお金を受け取ってもらえるようになったが、きっとお金では相殺できない何かが宿り続けているのだろう。
お金のないどん底の貧乏を、経験したことがないから言えるのかもしれない。私ができたことは、身の程知らずの借金の山をこさえたぐらいだ。だから、自慢できる財産などない。お金に苦労をしたことはないけれど、返済できないような借金を考え、諦めそうになったことはしばしばある。その時だ。
お金では交換できないものに出会う。
お金では買えない真善美に出会う。
出会った真善美とは、生きる喜びそのものだ。それを味わえば、誰かにも味わってほしいと思う。真善美とは、見えない絶対である。
お金では手に入らない生きる絶対にふれられる。それを伝えたい。伝えてもらったからだ。
だけれど、わからない人にはわからない。
見えるものにしか価値がわからない人にはわからない。
わからせる参与が起き続けても、それを贅沢と言い訳で見ないように生きる。それも、ひとつの生き方だろう。
だけれど、まわりのものが離れていかないか。彼らにとって、そんなことは余計なお世話なのかもしれない。
見えるものにだけ価値を求めると、真善美に生きようとする人から距離を置かれることもある。
だが、その距離さえ、自己実現への参与なのかもしれない。
否定的参与からも気づきは生まれる。
そこから、自己に働く摂理を受け取ることができる。
それが、開かれていく近道ではないだろうか。
























