孤独の微笑み
投稿日:2025年11月24日 / 最終更新日:2025年11月24日
自分が選択してきた人生を信じられないのは、
最高の孤独ではないのか。
救われたいと願った若かりし頃。
成功という幻想を追いかける高額セミナーに通った。
成熟することでしか実らない果実を、今すぐテクニックで咲かせようとした。
咲かなかった。
咲くはずがない。
成功など、どこにもないのだから。
在るとすれば、今。
自分の足で歩くことが善く生きることだと教えてもらった。
優れた師に巡り会えていたということだ。
それでも、今回は、どう考えても乗り越えられそうにもない。
教わったことだから救いは求めない。
求めたくなる。
これまでにない窮地に、今、陥った。
これまでと同じで甘い認識から学ぶことでもない。
可能性を探る隙間もない。
求められていることは、認識を問い直すこと。
あるべき姿は、どうであれ未来を信じて今を生きることでしかない。
いつものことながら生きる道程の未熟さに気づかされ、落ち込む。
心のどこかで、どうにかなると知っていても、今回はどうにかするレベルを問われているのだろう。
異次元への招待状か。
どんな小さな一歩が、マイクロ・ビヘイビア・チェンジになるのか。
そんな一歩では氷山の一角を崩すことにすらならないのではないか。
疑念もやってくる。
こんなときは誰かに相談してみるのもいい。
そこに解はない。
しかし、自ら問いかける一歩は、自ずからの糸口となる。
一人、思い、考える。
この出来事の意味は何なんだ。
それも孤独な時間なのかもしれない。
しかし、これを孤独と言うなら、それこそが生きる力を内側に育むことではないのか。
これまでも幾多の窮地があった。
そのたびに、もうダメかなと諦めかけることがあった。
どう乗り越えたのか。
30年前は、一歳の子どもの寝顔を見ながら、悔いのない時間を生きようとした。
子どもの顔を見て気持ちが変わった。
20年前、お金への執着から解き放たれた。
必死にもがいて知ったのは、一流は謙虚であったこと。
あの時は、一つ上の先輩からの一言を頼りに新たに歩み始めた。
一つの言葉で気持ちが変わった。
2020年。
必死。コロナ禍のおかげ。売上が9割減った。
返済できる確信などないのに、借りられるお金は借り切った。
返す当てのない借金をするよりも、事業が続けられる喜びで満足だった。
これって、正しかったんだろうか。
出来事に対する認識の甘さは超一流。
一所懸命に生きていれば、神様が応援してくれると信じていた。
実際に、窮地のたびに偶然の出来事に拾われた。
今回はどうなんだ。
これこそ孤独ではないだろうか。
自分が選択してきたことを信じられないのであれば、
これから何を理想として生きていけばいいのか。
これまでを振り返ると、どうにか生きてきた。
まわりもそうなのかもしれない。
これまでの自分を信じるよ。
来ることのない明日というものを信じて生きられるのだから、
自分の未来だって信じたらいい。
ちっぽけな理想なんだ。
家族が笑顔で生きてくれたらいい。
ちっぽけな夢だけれど、それがすべてなんだ。
笑っちゃって。
認識を疑い自己反省して、誠実に生きるなら、残りは信じるだけではないか。
だいたい窮地が現実になったことがない。
じゃあ、窮地とは成功や疑念と同じで抽象概念ではなかろうか。
無いものを真剣に考えてどうするんだ。
窮地も成功も疑念もない。
ただ、今を生きるだけしかない。
今しかないのだから。
無いものを悩んでどうする。
認識を疑え。
魂の命ずるままに自ずから生きる。
至福の孤独が開く道。
何ものでもない混沌からの道標は、魂と会話する孤独という時間を経てやってくる。
魂にふれられると、ほら、ウフゥだろ。
わかると笑えるじゃない。
それなら最初から笑っておくってどうだ。






















