幸せになる方法は分かっても、それでも不安。
投稿日:2025年9月24日 / 最終更新日:2025年9月23日
幸せとは、よい努力を続けることである。
幸福は外的なあれこれによらないと私は言った。したがって、外的なあれこれの獲得のために費やされる努力は、この場合、努力とは言わない。私の言う努力とは、外的なあれこれによらなくても、いかなる境遇にあろうとも、それ自身で常に幸福であることができるための、魂の努力である。 池田晶子
魂ということばが出てきたら、それを語れる度量はない。
幸せになる方法は、この通りだと思う。
それをわかっているようで、そうでない生き方を選択してしまう。たとえば、
- 「名刺の肩書きに、安心を求める」
- 「他者の評価という鏡に映る自分しか信じられない」
- 「数字や規模に“意味”を託してしまう」
何かと比較している。自分の幸福度を、誰かのそれと比べている。そうしている者が、「そうじゃない」と言っても、それに間違いはない。外に幸福を求めるのは、決して満たされることがない。常に空疎に付きまとわれる。私もそうだった。今でも、そうなりそうなときがある。
『いかなる境遇にあろうとも、それ自身で常に幸福であることができるための、魂の努力』とは、みんなにとって善いことは何か?と『善』を問いながら生きる、魂の構えを持つことらしい。
なるほど、それなら少しずつそう生きられるようになった。
まだまだ小学生レベルだけれど、他の人が喜ぶ仕事を優先できるようになった。家事を進んでするようになった。この1年、スーパーへの買い物を担当している。何よりも、無駄な言葉を吐き出さなくなった。おかげでトラブルが減った。嬉しいことに、飲みに行く機会はほとんどなくなった。愚痴や自慢話を聞かされる時間が減り、それはそれは嬉しい限りだ。
だけれど、定期的に不安に襲われる。何があっても安定した心でいる修養を重ねているのに、不安がやってくる。20年前は、それに対して「不安さん、おしえてくれてありがとう」と語りかけて、誤魔化していた。一時しのぎだけれど、試してみるといい。不安を受け入れ、挨拶すると、しばらく不安感は消えてくれる。
そう。しばらく消えるだけで、また、やってくるのだ。これでは、不安になる問題を先延ばしているだけだ。どうにかしなければ。そこで最近、不安に対処する方法を編み出した。
不安になったとき、より善く生きる努力を惜しんでいると自覚する。よりよき『善』の機会を見落とさない注意喚起として受け取る。
もっと、もっと、善く生きられる。まだまだ役立てられる。見事に不安が消える。
昼寝をする。
さぼる。
労を惜しみたいと思うことがある。
人間だもん。(どっかできいたセリフ)
人の不幸とは、自身以外のところに自身を見出そうとすること。
他人との比較、お金、事業規模、売上、他者承認、地位や名誉を気にするなら、それはほかに幸せを見出そうとしているに間違いない。空疎だ。私は、早く教えてもらえ、間違いを実践し、間違いに気づき、出直せてよかった。本当に、素敵な仲間に囲まれている。
もっと、もっと、出来る限りのより善き行いをしたい。それは努力を要する。努力を続ける。正直、楽なことではない。だけれど、幸せだ。
もっと、もっと、より善く生きることを知りたい。そのための辛い時間なら、自ら買って出るつもりだ。不安は、ここから湧いていたのだ。
不安さん。
ありがとう。