『悩む』ことで失うもの
投稿日:2026年1月16日 / 最終更新日:2026年1月15日
「まいっちゃったなぁ……」
「どうしたらいいんだ……」
「相談してみるか……」
『悩む』ことを日常にしていた。
当たり前だと思っていた。
疑うことをしなかった。
そんなある日、目に飛び込んできた。
「人生論的な『悩む』ことが無くなる……」
「それ、本当なの……」
素直な者(自分)は、だまされてみることだ。お金を失うわけではないし……。
本当だった
たとえば、人間関係のストレス。
「一緒に出掛けたくない……」
「名指しでSNSに書かれている……」
激しい怒りとともに「どうしよう……」
他人のSNSは編集できない。
悪口も消せない。修正もできない。
無視するか、放っておくことしかできない。
それでも、そういう奴から通夜に誘われる。
断れない。
式場でばったり会ったら、それも気まずい。
奴との人間関係を、どうしたらいいのか。悩むと、仕事に集中できない。そればかりか、気持ちまで沈んでしまう。そんな時に出会ったのが、『悩む』ことを止めて、『考える』ということ。
『考える』とは、本質を探ること。人間関係の本質を問うこと。その考える形式は、「何を人間関係と呼ぶのか」。
人間関係は他人との関わり方
なるほど。人間関係なんて、上手くいくわけがない。はじめての人生を経験する者同士が関わるのだ。
上手くいくはずがないのである。
「何を人間関係と呼ぶのか」と考えた結果、経験の乏しいもの同士の関わり合い、本音では戦いになる。建前ではストレスが溜まる。わかり合おうと話し合う時間の余裕は、今のあわただしい時代には取れないだろう。すると、人間関係は、すれ違いが当然。上手くいかないのが普通なのだ。
人間関係がいつもうまくいっている人などいないはずだ。もし、そんな人がいたら、相手は相当苦しんでいるのではないだろうか。
人間関係は、うまくいかない。
誰に聞いても、同じだろう。
だとすれば、人間関係はすれ違いから、それぞれの価値や意見を理解し学び合うものではないか。人間関係は、より良く生きるための学びの場だ。
「人間関係」という本質を『考える』ことをしないで「どうすればいいのか」と『悩む』。これでは、的を射た答えが出ないのは当たり前だ。
親子も同じ
先日、「子どもがウソをつくようになった」と、母親が相談してきた。深刻に悩んでいる。「ウソをつくようになった子どもを、どうしたらいいのか」。
考えるんだ。「何が、子どもにウソをつかせたのか」。
答えは明確だ。
母親に嫌われたくないからだ。母親に愛されていたいからだ。
母親は、自分が無条件に子どもから愛されていることに気づくために、子どもがウソをつくような出来事の場をつくる。
目的は、母親が無条件の愛に気づくためだ。そのために準備される場を、「格知」という。存在の祝福に気づかせるために、ときにその場は、ストレスのように現れる。
格知を経験した母親からのメッセージ。

格知とは、何かに気づかせてくれる場が、提供され、開かれるもの。なんて奥深い人生の出来事なのだろう。
先日、定例会で、格知のトレーニングをした。それは、謎に満ちた、やさしい時間だった。
母親が無償の愛に気づいた、子どもがウソをついた出来事のように。
もし、人間関係のストレスも、何かに気づかせようとして起きているのだと、そう見ることができるなら、それは、格知から開かれた出来事だと言える。
だとすれば、
悩むのではなく、
出来事の本質を考えることが、
やはり必要なのだ。
自分にとって、あの「人生論的な『悩み』が無くなる……」という言葉との出会いは、格知から開かれた事象であった。
悩むことが無くなった今、人生を前に進めることを、考えることに集中できるようになった。きっと、どんな出来事が起きても、もはや、悩めることはできないだろう。
先人の叡智を学ぶことは、美しいことだ。
格知。
参与。
究極的真実在。
無量の自己。
開かれる自己。
宗教ではない。
万葉の時代から受け継がれる言葉。
ゆったりした時間をかけて、
味わう価値が、
あるのではないか。























