自分の居場所。
投稿日:2025年9月7日 / 最終更新日:2025年9月8日
働かされているのか。働きたいのか。働かせてもらっているのか?
生活のために、他人に雇用されて働かされているのか。
自ら社会に役立ちたい、人生をより良くしたい。それで働きたいのか。
自ずから選ばれた道を、試行錯誤しながら未来を信じて今を生きるのか。すぐに満たされなくなっても……。
「幸せな人生とは?」を論じる先輩。
食事会は、ありきたりな建前が飛び交いながら続く。
「お金を持っていても、あの世までは持っていけない……」
「お金を持っていることよりも、どれだけお金を使ったかに価値がある……」
無言で聞いていると、先輩は続けた。「お金の価値は持っていることではなく、使い方にある。お金の使い方とは、おいしい店を見つけ、それを味わう……。絵を購入する……。音楽を聴きに行く……。」先輩の人生の背景をかいま見た。彼は自分を幸せ者だと言っていた。自分で言うのだから、間違いがない。
同世代で一番と言われるビジネスの成功者の友人からは、「毎日、定時まで働き、おいしいものを食べ、いい女と、おいしいワインを飲む。これ以上の幸せってあるんですか」と問いかけられた。若かりしシュンペーターも、ヨーロッパ一の美女を愛人に持ちたいなどと、同じようなことを言っていた。煩悩、煩悩。何も否定することなどない。そうやって生きてきた。
そこに、お店のオーナーが入ってきた。「35歳になる息子は独身で、メンタルが弱く、何かあると一人でキャンプに行ってしまう。早く孫の顔を見せてほしいのに……」。人倫学をかじっているという仲間が、「それは神様とつながりに行くんだなぁ」と一言。そして、その会話はそこで止まった。
見えるもの以外を信じない者たちを「市井」というらしい。世の中を見渡せば、そういう人たちが生活しやすいように環境整備されている。5年前を思い出す。ある著名なマスコミの経営者が、「国民はバカだから、日本は社会主義の方がよくなると思う」と言っていた。「バカとは何か?」とムカッとしながら尋ねてみた。「バカとは、考えることをしない人たち」を指していて、彼らの間ではそう言うらしい。
なるほど、考えないものはバカ。妙に納得してしまった。と同時に、市井の側で生きていることに気づかされたのだった。
自ずからが先、そして、考えて生きる。
確かに、考えないで生きる人の方が多いのかもしれない。数年前、人生100年時代を迎え、老後の2,000万円問題が大きく取り上げられた。老後に2,000万円の蓄えがないのに、それを問題にした人とそうでない人がいた。定年のない仕事をしている者は、悩みようがない。
だけれど、定年後には働きたくない者は、生活費が無くなることが大きな問題なのだろう。そういう人たちは、定年後のことをそれまで考えてこなかったのか。死の直前まで働き続ける家風の中で育ったから、定年がよく分からない。こちらも定年を考えていない。
毎日のように遊びに来るお百姓さんが、「夕方になると不安で、朝の光が待ち遠しく、午前2時に起きて読書しながら夜明けを待つ」と言っていた。なんか違うじゃないか。
でも、そう考えるのが市井の特徴らしい。不安やストレスを避けたがる。何が起こるのか分からない不安。起きた出来事を引きずるストレス。すべて「日々新た」と思えれば、ストレスなどなくなるのに。
タバコ産業からの依頼で、ストレスが体に負の影響を及ぼし、タバコを吸うことでストレスが軽減すると、アメリカ政府に対して提言したセリエ。晩年、ストレスにもよい面があると発表しても、時すでに遅し。1950年代以前には、日本にストレスという言葉はなかった。それなのに今では、ストレスで病気になるとは社会通念になっている。
なるほど「ストレスを避けたい」「不安をなくしたい」「人間関係に疲れた」、解消しない問題を悩む。それらは問題ではないことを疑うことさえしない。自分の常識にしたがって注意を向けてしまう。だから考えない。それらは、常識ではなく、誤った社会通念に過ぎない。
美味しいもの、美しいもの、心を震わせるものは、探しに行かなくても、飲食店に行かなくても、いつも近くにある。
考えるとは、日常の当たり前を疑うことだと知っていても、相当難しい。日常の邂逅(かいこう:出会い)を受け取りきれない。間違った社会通念により、チャンスの機会を受け取れないのは仕方がない。それを知っている者でさえ、「格物」(真実を知ること)しようと思っても、「致知」(理屈ばかり解こうとする)ばかりしてしまう。「晴れてよし、曇りてよし富士の山」。分かっちゃいるけどね。
居場所は、生まれるときに決まっていたのか。何度か天命に背くように自らの選択をしていたけれど、今は時が止まってほしいほど、満たされている。読まれないだろう本に囲まれ、導かれるように生かされるときが、いつまで続くのか。今は現世なのか。前生なのか。その問いさえもおもしろい。
市井の一人として生きるとは、日々新たと驚きながら、自分の常識を見つめ直すことだと学んだとおりだ。