気づけない優しさ。トラック運転手と老婆と医者。
投稿日:2025年8月5日 / 最終更新日:2025年8月4日
朝の奇跡。午前4時の大型トラック。
3時に目が覚めた。
パッチリ目が覚めた。
「さて、どうしよう。散歩に行く時間まで読書をするか……」
4時過ぎくらいから明るくなりベランダに出て、1日の挨拶をしていた。
すると、大型のトラックがゆっくり目の前を通り過ぎていく。
ゆっくり、ゆっくり、銀色の長いボディーが進んでいく。
優しさがおりてきた。
なぜだ……。
そうか、まだ寝ているであろう私たちへの配慮なんだ。
静かに寝させてくれる愛なんだ。
もしかして、人間を超えて自然界への配慮なのか。
絶句。
運送業なら、急いで目的地に行きたいはずではないか。
だけれど、あのトラックの人は、
気づかれないところで気配りして、
私たちと一緒に生活しているんだ。
これは早起きした恩寵なのか。
近くに、慈しみを持って生活している人たちがたくさんいるんだ。
善き一日の始まりが、
その彩を深めたのではないか。
気づいていない。
気づけない。
愛されながら生きているんじゃないか。
最後の通院にきて万歳する90歳の老婆。
5年ぶりに病院に行くことにした。
最近、よく寝すぎてしまうので、それが気になったからだ。
出がけに地元の先輩が来社。
私が「○○病院に行く」と伝えたら、
先輩は「俺は、もう来ないでください」とその医者から言われたらしい。
理由は医者の言うことを聞かないからだ……。
その先輩は痛風。
痛風の発作は痛いらしい。
過去に2回発作を起こした。
その度に、左足だから、右足で車を運転しその病院に駆け込んだ。
先輩は痛風になっても、酒、贅沢を止めない。
それが医者には分かるんだろう。
自分を大切にしない者を、その医者は、患者として扱いたくないんだ。
私が受付すると、そのすぐ後から車イスに乗った老婆(90歳)が息子に連れられてやってきた。
老婆は、ほとんど話せない。
意識はもうろうとしている。
呼吸が辛そう。
老婆たちと一緒に、待合室で1時間半待った。
そして、私と老婆の診察と診断が交差し、
老婆と医者の会話を聞くことになった。
医師:「お祖母ちゃん。じゃ最後だね。何か、聞きたいことある」
老婆:「……」
この繰り返しが10分以上続いた。
医師は自ら会話を終わろうとはしなかった。
最後なんだ。
その時間が慈しみとなり、世界中に広がっていくようだ。
通常なら、待たされて、後から来た老婆の後にされて、
イライラするはずだった。
だけれど、
やはり、優しさがおりてきた。
「ここまで患者に寄り添う医者がいるんだ。」
だた思った。
会話が終わった。
すると、突然、老婆が大きな声を張り上げた。
どこにそんな元気があったんだよ。
「〇〇医院のますますの繁盛を祈って、バンザーイ、バンザーイ」
院内に老婆の声が響き渡った。
私には熱いものが流れた。
きっとあの老婆は、もう生きては家に帰れない施設に入るのであろう。
それを老婆は悟っている。
その老婆の感謝の叫びを聞いた。
「あーぁ。」
なんてうつくしい時間を過ごすことができたんだ。
天に気づかれた、そんなときが流れた。
「賢しら」って何て読むんですか?
スタッフから、
「難しい言葉ですね。普通の人は使いませんよ。」と指摘された。
そうだと思う。
私も普段は使わない。
だけれど、私が賢(さか)しらなんだ。
「さかしら」とは、本来の「賢い」という意味から派生した。
「知ったかぶりをすること」
「わかりきっているような言動」
「利口ぶったふるまいをすること」
という皮肉や否定的なニュアンスを含む言葉です。
私自身を戒めるのに使いたいのが賢しら。
社会の悪口を言いたくなる。
仲間、コミュニティを愚痴りたくなる。
仲間の辛さを分かり切ったようにふるまう。
賢しらな自分。
忘れないでいたいんだ。
見えないところで、たくさんの本物が生きていること。
愛に囲まれていることを、忘れないで生きていきたいんだ。
賢しらな自分を戒めたいんだ。