人間国宝の「ことば」に学ぶ、生きる力をくれる言葉の本質。「色」「草木」「機(はた)」は何を語るのか?
投稿日:2025年8月7日 / 最終更新日:2025年9月8日
人間国宝から、心に響くことばを学ぶ。
「言葉」の勉強は、きっと生まれた時からしている。
そして、私たちは「ことば」の勉強もしてきた。
「言葉」は、聞こえる言語。そして、「ことば」は、聞こえない非言語。
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時間が止まる。重要無形文化財保持者(人間国宝)、志村ふくみさんのことば。
染織家(せんしょくか)としての日本初の人間国宝。
著書『色を奏でる』を読んで、時間が止まったかのような感覚を覚えました。
重要無形文化財保持者(人間国宝)の「ことば」にふれたからです。
彼女の「ことば」には、魂が宿っています。
「色を奏でる」の数ページに時間が止まります。「仕事が仕事する」 P167。
……人から見れば大いなる失敗、挫折、失意のどん底。そこから仕事がはじまった。もしその挫折がなかったら、私は平凡な一介の主婦だったかもしれない。人を相手ではなく、素材が相手、素材と深く深くつき合う、手の先、指の触感が糸と語る。
私を選ぶのは素材なのだ。素材が私をはねつけ、そっぽをむいてしまうことも屡々だった。或る時から、素材がふっと私に寄り添うようになった。素材のさまざまの表情が織の底から浮び上がり、つつましく微笑んだり、厳しく射るように私を戒める。いつでも素材がそこでやすらいでいられるように、私は十全の心くばりを怠ってはならないのだ。
色にしても同じことだ。色はさらに手に触れ、たしかめることのできない存在である。物ではない。伴し物(ともしもの)以上の物としての存在感、色は私の場合、糸というものに浸透し、そのものと一体になった時、色として存在する。決してすでにあるものではなく、常に創りだしている。
草木、色、機、素材と、命が宿る有機体として向き合っている。
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自然を生きている。
聖人たちは、みな、自然の一部として生きている。
自然との関わりを「言葉」で記して、その奥に「ことば」が隠れる。
「私を選ぶのは素材なのだ。素材が私をはねつけ、
そっぽをむいてしまうことも屡々だった。或る時から、素材がふっと私に寄り添うようになった。」
素材に選ばれる?
素材にはねつけられる?
素材がふっと私に寄り添うようになった?
このような表現は、
「言葉」を日常会話の中心とする中では、
スピリチュアルと言われてしまう。
人間国宝の「言葉」は、スピリチュアルなのか。
素材などモノと会話することはスピリチュアルなのか。
ペットの犬猫と会話するのはスピリチュアルか。
気持ちのいい朝、「起きた!」「寝た!」「気持ちいい!」「朝だ!」と自分にかける言葉は、
誰に向けてかけているのか。
それこそスピリチュアルではないか。
「日々新た」。(中国・儒教の古典『大学(だいがく)』の一節)
「苟(まこと)に日に新たに、日々に新たに、また日に新たなり」
日々新た。
毎日が新しく、常に変化・成長・刷新し続けることを意味する言葉。
こんな美しい言葉がある。
同じ出来事をストレスと受け取るのか?それとも日々新た。
毎日の新しいことを、ストレスと呼ぶのは宇宙レベルのジョークではないか?
新しい出来事を、日々新たとして、チャレンジの機会とするのか。
避けたいストレスな出来事とするのか。
自分の自覚の深浅の差ではないのか。
2歳で養女に出されて苦労を重ねた人間国宝の言葉は、美しく、生きる力を与えてくれる。
どんな日々新たが紡がれたのか。
「言葉」と「ことば」──伝えるためではなく、響かせる。
私たちは、生まれたときから「言葉」を学んできた。そして今でも学んでいる。
親や大人の呼びかけ。
教科書の文章。
ニュース。
ビジネスメール……
「言葉」は、情報を伝える手段であり、社会で生きるための道具だ。
だけれど、いつか気づく。
どれだけ言葉を話せても、どれだけ正確に書けても、心が動かないことがあると。
言葉は、心の奥に響かない。
ところが、たった一言で、魂が震えるような感覚に包まれることがある。
なぜか、深く、奥に届くことがある。
それが、「ことば」だ。
「言葉」は、伝えるためにある。
「ことば」は、響かせるためにある。人を変容させるためにある。
「言葉」は知識を運び、「ことば」は生きる力を運ぶのだ。
日常会話は「言葉」で成り立つ。
人と何かと関わるとき、交わされているのは「ことば」だ。
「元気?」のひと声の言葉は、ある人を案じているとき。「ことば」として慈しみを運ぶ。
「ありがとう」の一言に、言葉以上のぬくもりがあるとき。
その瞬間、私たちは、「言葉」を超えて「ことば」を交換している。
志村ふくみさんが語った「素材が私を選ぶ」という一文も、理屈ではなく、ことばとして魂に届く。
言葉では説明できないけれど、ことばでなら感覚できる。
私たちが生きるのに必要なのは、「ことば」に出会うことではないのか。
当たり前にある現実的なスピリチュアル
昨晩の定期研修で、
最高の褒め言葉をいただいた。
「スピリチュアル的で抽象的な表現より、現実的な表現の方がわかりやすいと感じました」
それは、「生きる」がテーマの研修。
生きる以上に、現実的なスピリチュアルは存在しない。生きることを、現実的にわかりやすく伝えられるはずがないではないか。生きることは言葉で説明できない。そこに隠れていることばを感じてもらうしかない。
私たちは、当たり前に生きている。
これほど現実的なことはあり得ない。
そして、「生きる」不思議以上にスピリチュアルなことなどあるのだろうか。
志村ふくみさんの言葉。
「私を選ぶのは素材なのだ。」 ➡どういうこと。人間国宝さん、スピリチュアルですね。
「素材が私をはねつけ、そっぽをむいてしまうことも屡々だった。」 ➡素材がはねる?そっぽむく?またまた、どういうことなの。
「或る時から、素材がふっと私に寄り添うようになった。」 ➡或る時……?なんだそれって、思わないですか。
不思議の秘密。
五感という感覚器官で捉えられる日常会話で使う表現を「言葉」。
外部を感じる五感では、見えない、聞こえない、内面で感じる五感の表現を「ことば」と言ったりした。
そう。
志村ふくみさん。
普遍的な仕事で名を残す人たちは、
自然と「ことば」で会話していたんだ。
人間国宝の言葉をモデリング
どうしたら、彼女のような言葉が紡げるようになるのか。
自然にふれてもらいながら、そんな言葉が紡げたら。
コミュニケーショントレーナーとして、
ことばを生業とするものとして、
彼女の「ことば」をモデリングさせてもらった。
彼女の「ことば」を、自分の仕事に置き換えてみた。
私を選ぶのは、ことばだ。ことばが私をはねつけ、そっぽを向いてしまうことも、しばしばある。けれど、ある時から、ことばがふっと寄り添うようになった。
心の底から、ことばのさまざまな表情が浮かび上がり、ときに、つつましく微笑み、またあるときに、厳しく射るように、私を戒める。
ことばが、混沌を秩序へと変えていく。その秩序がまた、問いとなって混沌へ還る。
それが、生きるということなのだ。
——分かっていることなど、なにもないのだ。実感も、同じである。実感は、手に触れて確かめられるものではない。それは、モノはなく、天だ。
実感と経験は、「伴し物」を超えた存在感をもつ。
実感とは、経験の中に深く浸透し、自己展開し、やがてそれ自体と一体化する。
そして生活の根底で、それを反省し、反芻しつづけるうちに、
「常識」として結晶していく。成熟に従って、直観は思惟へ、
思惟は思弁へと進む。年齢が、そうさせてくれる。常識は、決して与えられたものではない。つねに、自らの手で創り出していくものだ。常識こそが、生きる意味である。
国宝の「ことば」を借りたので、私の言葉とは言えないかもしれません。
自分の言葉だなんて言えない。
でも、彼女の「ことば」を借りて、思弁することができた。
思弁する。
普段あまり耳にしないかもしれません。それは、経験や現実に基づかずに、純粋に論理的な思考だけで物事を深く考察することを意味します。
彼女のことばを天のメッセージとして実感し、思考を開いてみた。
すると、これまで整理しきれなかったことが、彼女の経験を借りて深く洞察できた。
この思弁という技術を伝えてくれた池田晶子さん。
やはり普遍を体現する人はうつくしい。
志村ふくみさんと池田晶子さんのことばで、本質的なことを知ることができた。
天才たちが残してくれている。
よりよく生きるヒントを、先人たちが残してくれている。
生きている以上に、現実的なスピリチュアルは存在しない。
より善く生きる。
それに囲まれて生きている。