コミュ力は準備できない
投稿日:2026年1月6日 / 最終更新日:2026年1月6日
部下が辞めるときに気づく、コミュ力の欠陥
新年が明けた。
心新たに……。
本当か……。
部下が、一人、辞める。
忍耐力のない奴だ……と責めるかもしれない。
二人目が辞める。
社会は厳しいんだぞ……と、エールとも言い訳ともつかない言葉を送るかもしれない。
三人目が辞める。
上司には向かないのかな?と考えるかもしれない。
四人目が辞める。
五人目が辞める。
そのうち、同僚が辞めてしまう者同士でチームが作られる。
そろそろ、仲間が離職することで、自分が傷ついてしまうことに気づくかもしれない。しかし、彼らは自分が傷ついても、それを見せないように生きてきた。
怒鳴る。
飲む。
食べる。
旅行する。
これらは一時的だけれど、自分でできる傷の癒し。
一時的。
しばらくすると、傷ついた自分を隠すために、そのストレスを誰かに向けてしまう。それを繰り返す。
自分が傷つかないように生きている。
それに20代で気づければ奇跡。
30代なら天才。
40代なら大人。
50代なら最後のチャンス。
60代なら懺悔の時間が続く。
70代なら、取り返せない記憶に苛まれてしまうかもしれない。
傷ついたら、それに気づかないようにするために闘うのではなく、逃げるのでもなく、隠れるのでもなく、大人として振る舞うのだ。傷ついたのは大切なもの、価値、存在。自分が傷つくとは、大切な存在に触れられた証なのだ。
コミュ力とは表現
プレゼンテーションのような発表は、ある程度準備できるだろう。しかし、その時に予期せぬ質問があれば、発表のような準備ができていない。そこには、表現力の差が表れる。
コミュニケーション能力とは表現。千差万別の一人ひとりと向き合う。発表のように準備が間に合わない。(笑)そんな時間などない。
昨日、「来年は四十周年なのでスピーチをお願いします」と言われた。
そこで、「20分でいいですか?」と冗談を返すと、
「30分はお願いします」と返され場が和んだ。
準備ができない場での表現力。笑いのコミュニケーション能力を使った相手は見事だ。
テクニックでは磨かれないコミュ力
昨年暮れ。多忙にしていた。「もうこれ以上の仕事は請け負えない」と友人に溢すと、「できないと思えば壁ができる。できると思えば道が開ける」の名言を。これはテクニックではない。知識として知っていたとしても、そのタイミングで表現できるとは限らない。テクニックでなければ、何が在るのか。
その場にふさわしい言葉を紡ぐ能力とは何か。それは、紆余曲折を味わい尽くし、辛い試練を喜びと化し生きてきた者の態度ではないか。しかし、不思議だ。誰にでも大きな試練があり、苦しみながら乗り越えてきたはずである。不思議とは、態度が身につくものとそうでない者の差。それは先人に教えてもらうしかない。叡知に教えてもらうほかはない。それは自覚の差。何かを自覚している差。
出来事、他人を、自分が大切にしていることを教えてくれる存在と尊重すれば、反射的に闘うことも、逃げることも、隠れることもしなくて済む。私たちは反射的な反応を避けることはできない。自分の大切にしていることに気づかせてくれる反射的な反応を無くすことはできない。できることは、その反応を味わい、大切なことに気づき、感謝と喜びに変える人としての叡智を磨くことだ。
2026年、例年通りに想い通りにならないことばかりかもしれない。そして、その理想としての想いが、みんなにとって善いことであるならば、それに邁進する努力こそが生きる醍醐味であろう。理想がなければ、人としてどう生きればいいのか。そう考えると、努力とは美しいものでしかないと自分を戒める正月となる。想い通りにならないときを楽しむしかあるまい。(笑)




















