同級生の芸術家への手紙。「芸術家の宿命か?」
投稿日:2025年5月30日 / 最終更新日:2025年5月30日
多分、彼ら。
感じすぎる。
不安。
無力感。
無能力。
劣等感。
無価値感。
自己否定。
不全感(ふぜんかん)。
芸術家って、
それを絵、
音楽、
詩、
彫刻にするんだろうか?
同級生の絵描き。
彼女。
いい絵描くんだ。
だけれど、
いーっつも、
「心がモヤモヤする……」って言ってる。
辛そう。
きっと、
辛いんだ。
でも、芸術家って、
絵描きって、
それを表現する仕事なんじゃないかなぁ!
腕のいい理学療法士。
絵描きのお嬢様と似てると思う。
俺のお気に入りの理学療法士さん。
「散歩中に躓くんだ・・・・・」と相談したら、
理学療法士の彼は、
俺の全身の反応をチェックしだした。
それで一言。
「重症です」
「ばーぁか。
そういうこと言うから独立、できねぇーんだ」と本気を冗談のように伝えた。
すると、
理学療法士の彼。
「今日は、1時間で、右肩だけやります。
あとは、自宅でできる宿題あげます……」
俺の本音。
「2時間かけても、今日で終わりにしてくれ……。」
あれから3年。
散歩中に躓くことは、なくなった。
アイツ。
プロ中のプロだ。
「恋愛運はないけれど……。まぁ、それは関係ない……。」
アイツは、
俺の体に触れながら、
律動を感じてるようだ。
俺が60年、粗末に扱ってしまった体をピンポイントで、応急処置した。
繰り返すけれど、
あれから3年。
自宅でのストレッチで、
不自由なく暮らせている。
出来なくて、出来なくて、涙を流したメンタリングの修行。
1999年に言葉を自由に操るセラピストに出会った。
どうすれば、一瞬で、
いや、数十分で人を変える言葉を紡げるのか?
私の興味はそこにしか向けられなかった。
運がよかった。
10年勉強した。
涙がこぼれた。
目指した先生のようにまったくできない。
13年目。
天啓。
戦慄。
こうするのか!
あのときの悔し涙とは違う。
妙趣。
なにかが萌芽した。
諦観とは、
こういうことだ。
コミュニケーション能力の専門校を、
日本で一番最初に作った。
前身は2004年。
日本コミュニケーショントレーナー協会の名称は、
2007年6月。
当時、「コミュニケーションを教えている」「心理学をやっている」と自己紹介すると、新興宗教と間違えられた。
どうしても、
わが師と同じ技術。
一瞬で、人を変化させる技術を、
まわりに広げたかった。
『言葉の魔法』と言っても、
『魔法の言葉』と呼んでいい。
それは、心を空っぽにして、
クライアントと向き合っていると、
勝手に降りてくるもの。
律動が教えてくれることば。
一緒に学ぶ機会に恵まれた。
メンター、
コーチ、
カウンセラー、
セラピスト、
経営管理者、
リーダーたち……
「気の利くことばは、
空っぽにしておかないと降りてこない。つむげない。」
先日、素敵な感想をいただいた。
コーチングのオープンセッションをご覧いただいた。
「感動しました。それは芸術です。言葉の芸術です。」
わが師から私が体験したことを、
提供することができた。
感動させることが芸術。ならば、それは心から創発するのではないのか?
「心がモヤモヤする」と悩む画家にとって、
それは芸術の創発ではないのか?
心のモヤモヤは、
無くすことではなく、
表現するように、教えているのではないのか?
心は、一個人の存在を超える謎。
だって、
心を自在に操れる人間は、
この世に一人もいないじゃないか。
心は、
コントロールするものではない。
心は、
そのサインを善として、
一人ひとりの生きる意味において、
強みをもって、
生きる意味。
自分だけができるものへの挑戦じゃないか。
なぜ、心という神のような存在が、
人を苦しめることなどすると思うのか?
心からのサインを聞いてみたらいい。
心は、
いつだって危険を知らせてくれる。
喜びを教え。
試練を通して、人間に喜びと感動をくれるじゃないか。
人の中に心があるのか。
心の中に生きているのか。
明白じゃないか。