幸せになりたい人は、そうならない
投稿日:2025年12月16日 / 最終更新日:2025年12月16日
池田晶子さんの『あたりまえのことばかり』を読みながら、考えるばかりである。捉われない彼女の思考は、物事のほんとうを見抜いてゆく。感動を超えて、驚きの連続と、追いつかない思考の連続で、自由時間のほとんどを奪ってゆく。
幸せになれない理由
「私は幸せになる。」この言葉は、まだ幸せでないという前提がある。
「私は幸せにある。」こちらの言葉なら、既に幸せの中にいることを意味する。
「なる」と「ある」の違いだけで、私たちは今すぐ幸せを感じることができるとは……。驚きではないか。
お金も、自由な時間も、やりたいことも出来ないのに……
「お金があれば幸せ。なければ不幸せ。」そう思い込んでいる人は多いかもしれない。そして、それは何かと比べた時の相対的な幸せ、もしくは、あるがままの自分では幸せを感じられない「条件付きの幸せ」である。
大切なのは、相対的でも、条件がなくても幸せでいられることではないのか。
試練とは感謝のこと
きっと、誰もがたくさんの試練を乗り越えてきたのであろう。そして、世間が言うように、試練やストレスを乗り越えることで、私たちは成長し、少しづつ自信を持てるようになるのは事実である。
そうであれば、思いがけない試練やストレスを受けたときは避けたい存在であるけれど、乗り越えてみれば感謝すべきものとなっているはずだ。
そのような宿命的な出来事を乗り越え続け、これまでどうにか生きてきたプロセスを振り返るとき、その味わいを心の奥のひだから深く味わうことができるのではないか。一人ひとり、経験してきたことは違えど、懸命に生きてきた足跡を振り返るときの奥深い感慨は同じではないであろうか。それを聖人たちは「法悦」と呼んだ。
なるほど。絶対的な幸福感とは、法悦を味わっているとき。
出来ないと思えば壁ができる。出来ると思えば道が開ける。
師走。
チョコレートづくり。
家庭内手工業で家業をやり繰りする妻を見て、「モームリ、限界!限界!これ以上は製造できない」とSNSに投稿した。
すると、法悦を味わい尽くしている友が、「出来ないと思えば壁ができる。出来ると思えば道が開ける」と応援メッセージをくれた。
言葉を聞けば、その背景を感じることができる。思い込みという見えない壁に惑わされず、自ら未来を信じて道を切り開いた光景が見えてくる。その言葉から、こちらも法悦を感じることができる。すると、法悦というものは、個人を超えてまわりにまで幸福をもたらすものなのだ。
「私は幸せになる」は、そうなれない
ペットの犬がいるとしよう。
「私はペットになる」と言ったとき、その人はペットになれるであろうか。私という主体は、どうやっても所有物(客体)には成れない。
だから同じだ。
「私は幸せになる」と言っても、私という存在は、その状態を所有する客体には成れないのは当然のことである。だけれど、私たちは間違った言葉を平気で話している。幸せになるという人ほど、そうならないのだから、真に生きてゆくなら、「ほんとうのこと」が導けるように考えることが大切なのだ。
そう。だから考える時間が足りなくなるのだ。それ自体が法悦になるのだろうが。


















