台本なき人生の美しさと、魂の響きに気づく瞬間
投稿日:2025年10月7日 / 最終更新日:2025年10月7日
生きる美しさ
ある女性が苦悩した時間を読ませていただいた。
環境の変化、介護、更年期障害、いろいろな要因から体調を壊し、人生に絶望を感じた10年。それは、家族のために生きた40年後に起きた。
その後、彼女は家族のための時間を、自分のために生きる時間に変えた。
自分でしか自分を幸せにできないことに気づいたからだ。それまで葛藤した時間は、目の前の人を幸せにするために学んだ時間であった。しかし、目の前の人を幸せにできるのは、あくまでその人本人でしかないことに気づいたそうだ。
なるほど、人はそれをお節介と呼ぶかもしれないが、自分でよかれと思ってした行為が裏目に出ることに気づくのは、人生の醍醐味の一つではなかろうか。
魂の響きをめぐる議論
早くも、「働いて、働いて、働いて、働く」という言葉が魂に響いたことを批判する者たちがうごめき出した。
あの言葉が魂に届いたことは間違いない。
それを「善」と受け取り感動したのか。それともエゴで受け取り、否定しようとしているのか。それでその人の覚悟が伝わってくる。
エゴで受け取る一つの代表は、起きた出来事を自分の価値観で評価してしまうことだ。
たとえば、こんな言葉だ。「社会にどんな影響を及ぼすか考えて発言してほしい」。
まさしく、これは自身の言動がもたらす負の影響を憂慮した言葉だ。なんと薄っぺらな評論なのだろうか。言うべきは、「結果はどうあれ、公のために無私で生きる姿勢に期待したい」ではないのか。献身的な発言に対し、魂から応えることをしない。
国の関係機関でコミュニケーション研修を担当して15年が過ぎた。約10年前だろうか。長時間残業の規制が強化された法改正の際、その意図を尋ねてみた。すると、「過度な仕事を背負った自殺者を減らすこと」という一点だった。
正論ではある。
そうなってしまう本人の自制が効かなくなったり、強制されるような状態がそうさせてしまうので、法律で縛るようにしたのだろう。
だけれど、本当の問題は、そこではないのではないか。貢献したいという美しい動機で仕事をする者に、法律が規制をかけられるのだろうか。本当なら、残業規制をするのではなく、貢献することで自己実現が図られ、感動する人生が創造されることを学ばせることではないのか。
貢献することを育むことができれば、もっと貢献するために、自分を自制し休むことを学ぶだろう。まわりに何かを強制することもなくなり、より調和の中で仕事ができるようになるのではないか。
こんなことは夢か。
理想なのか。
「働いて、働いて、働いて、働く」。魂を伝えているのだから、同じように響かせたらいいのではないか。生きるとは、何であるのか。学ぶ機会ではないのか。
内省と「思弁」
あの響きに共感した者は、自分を愛する時間をとるだろう。
もし、違和感を感じたら、その存在と自己対話してみたらどうだろう。「何があの言葉にあるのか」「あの言葉で心が動いた私がいる」、問い方はこんなところだろうか。
一人ひとり、一所懸命に筋書きの見えない人生を歩んできたではないか。どうやって生きてきた。心に感じたことをヒントにしてきたのではないか。悩んで生きてきたのではないか。先人の知恵を借りないか。悩むのをやめて、考えてみないか。
考えるとは、『あの出来事の価値は何か』を問うことくらいはまだ優しい。
本当に考えるとは、少し違ったやり方をすると先人に教えられたけれど、それは慣れないと大きな違和感を感じ、人にはまったく受け付けてもらえないだろう。
もし気になったら調べてください。
それは『思弁』。
それさえすれば、悩むことが無くなる。
大げさか。悩むことがほぼ無くなる。