妻からの三行半。
投稿日:2025年8月6日 / 最終更新日:2025年8月5日
人生の道標になる出来事。
三下り半を突きつけられた。
「次はないよ」
帰宅は、ほぼ午前様。
1週間に1回くらいしか夕飯を一緒に食べない。
二人の子育ては、任せきり。
子どもたちをお風呂に入れたことなど、一、二度しかない。
そんな生活が15年を超えたころ、
「パパ、いつ家に帰ってきてくれるの?」
その言葉に切なさを感じた。
誓いはウソでしかなかったのか。
生涯愛し続ける。
彼女のご両親に、涙を流しながら幸せにすると誓ったのに、
「俺は、何をやっているのか……」
でも、家庭を振り返らないことで、妻が私に最後通告をしたのではない。
妻の器。
飲み屋通いで疲弊していても、「パパ女難の相がでてるよ」と叱責するだけ。
他の女性たちと温泉旅行に行った記念写真がバレたときには、「30分したら言い訳を聞くから考えておいて……」と告げられた。その言い訳を聞かれることはなく、あれから33年が過ぎた。
妻は、何度か「あーぁ」と、深くため息をついていたはずである。
バカな俺も、繰り返される彼女の落胆と、それでも彼女が、彼女自身の人生を真っすぐ生きていく美しさに気づいた。
今、妻を応援することを第一に考えを、彼女を応援する人生を、私は一所懸命に生きている。そのつもり。
不思議なこと。
妻は、私が改心することを知っていたのだろうか。
信じていたのだろうか。
そうなる日を信じないで、日々の家事を、どんな気持ちでしていたのだろう。
妻の食事より、美味しい食事は存在しない。
愛がこもった食事を、
未来を信じないで作り続けられたのだろうか。
それを妻は知っていたのではなかろうか?
そうなることを、彼女は信じていたのではなかろうか?
結婚式での私の誓いを、
ずっと、ずっと、信じていたのではないか。
彼女は、私の誓い通りに、私にしてくれた。
私は、そうできるまで少しの時間が空いた。
その分、深く、誓いを生きられるようになった。
誓いの言葉を発したら、妻の愛を通して、誓いという言葉に私が捉まえられた。
誓いとは、願うことではないか。
遠回りしながらかなうものではないか。
その道程を夫婦が楽しめるのか。
憎しみ合うのか。
人間という煩悩をやめられないで生きる私たちは、
何かを許し合い、
何かを尊重し合い、
「ああ」
「そういうことか」
「なるほど」
と感慨的溜息をしながら、生きることを深めていくのではないか。
それこそが生きる実感。
そんな生きる道標を教えてくれた先人たちに、
「ああ」と感謝する日々が続く。