愛が感情に負けた物語『父親との問題』
投稿日:2026年2月4日 / 最終更新日:2026年2月4日
父から受け取れなかった愛
「小さい頃から、父からの愛を感じられずに育ってきました……」
「母は愛をくれましたが、父の側に立つ人でもありました……」
「その影響で、今の仕事を選んでいるのでしょうか……」
その影響もあって、児童相談所の職に就いたという。そういうこともあるのだろう。
伝えたい一言があっても、黙っているしかない。
「美しい選択に気づいたとき、感謝の言葉は準備できているのか?」
気づきは、準備した者にだけ訪れる
その彼は、結婚して20年。妻とうまくいかなくなって10年。何度も離婚を考えてきたという。
「それでも、二人の子どもが成人するまでは……と、頑張っています……」
「子どもがいなかったら、離婚しているでしょうね……」
「話を聞いてくれる相手がいて、今、お付き合いしています。」
ここは、一つの愛が感情に負けた物語である。これは妻とうまくいかないことの言い訳ではない。現実に目を背け、一時的な快楽を求めてしまった反応の一つに過ぎないのではないか。そこにあったのは、愛ではなく快楽だったのかもしれない。
絶対的な愛は、ときに、手段を選ばず満たされようとする感情に負ける。それもまた、人間の常である。愛は強い反面、エゴという存在との葛藤を起こす。自己レベルと自我レベルの葛藤の中で、私たちは惑うのだ。完璧でないことは、快楽の次元では許しで済むのか。愛の次元では、本当を探す機会だと言って許されるものなのか。
夫婦の危機が10年以上も続けば、愛も冷めるのかもしれない。求める愛でもなく、求められる愛でもない。共にいるほどわからないことがわかってしまう。それをわかろうとする努力こそが本当の愛というらしい。だとすれば、わかろうとしない夫婦が、年間18万組(2024年)を超えて離婚することも理解できてしまう。もちろん、それが暴力であれば、分かり合うことなどはできないだろうが。
夫婦の危機を救う愛
離婚の危機でも生活にはお金がかかる。二人の子どもたちの教育費もかかる。彼の給与では、厳しい時期が訪れたらしい。それを彼は両親に相談した。
70歳を過ぎた父は、年金と仕事をしながら生活している。毎月の小遣いは2万3千円ほどだという。その父が、生活に困窮しそうになった息子に、5万円を手渡してくれたそうだ。父の想いを、彼は噛みしめていた。
思い込みの重さ
一つの出来事からか。度重なる体験からなのか。
「小さい頃、父からの愛は感じられないで育ってきました……」
その思い込みがはがれた瞬間、父からどれほど心配され、愛されていたかが溢れ出してきたことだろう。
彼は静かに語った。
「その5万円、使えないですよ」
ゴッホの自画像の美しさは、絵の具を塗る前にあった真っ白なキャンバスを見えなくする。
40歳になるまで彼の歪んだ思いは、父のやさしい愛を隠してしまっていたのではないか。
父は、愛の表現が不器用だっただけなのではないか。
私たちは、何かの思い込みを持ち、その裏側を見ないようにして生きている。時には、そんな曇りをぬぐうことも必要なのではないか。快楽にかまけて、本当を見ないようにする時間が空しく思える。
見えなくなっているキャンバスはないのか。
いま、見るべきキャンバスがあるのではないか。
そんな時、思い出される。
直に善を問う。それが禅。

















