「永遠の桜」
投稿日:2026年3月9日 / 最終更新日:2026年3月9日
「美しい花」はあっても、「花の美しさ」など存在しない ―― 桜が語る「生」の意味
分かるまで時間がかかった。
桜が語りかけていた『美しく生きる』とは。
「美しい花がある。花の美しさというものはない。」 ―― 小林秀雄
「美しい花」と、「花の美しさ」。その違いが何なのか、つい最近までまったくわからなかった。恥ずかしい限りである。
幼い頃、「きれいなお花」とはしゃぐ女の子を見て、そんなことは「当たり前だ」と気にも留めずにいた。ただ、否定をしない自分がいたことも事実だ。そんな言葉を口にするのは女の子特有のものだと思い込み、男の子には似合わない言葉だと誤解していたのだ。
確かなことは、当時の自分にも、きれいだ、美しいという感覚そのものは、確かに存在していたはずなのだ。
40代を過ぎてからだろうか。桜の季節が、ひどく待ち遠しく感じるようになった。見ごろを迎えた「みずき野の桜ロード」を通る機会が楽しみになり、写真に収めるようになった。
それは、儚い桜が一時期だけその命を極める姿に、自らの人生を重ねる感覚と教えられた。
「秋寂ぶ、夏を経て。冬厳し、春を含みて」 ―― 柳宗悦
なるほど、人生にはリズムがある。
英華を極めるのは、ほんの一時。その道程に、どれほど厳しい時が隠されていることか。
そうか、もしかすると小林秀雄の言う「美しさ」とは、どんなことがあっても泰然自若に生きる、その「姿」そのもののことだったのだ。そして、生まれたばかりの人間には既に備わっているものではないか。だからこそ、人はそこに自らを重ね、桜を待ち望むのではないか。
さらに、時が熟したとき、若い頃よりも強く生きる叡知が宿る。それこそが、「美しい『花』がある、『花』の美しさという様なものはない」という言葉の真意なのだ。
桜は、自然に花びら散らせ、翌年の準備に入る。それは、人間が執着を手放したときに訪れる『大死大活(だいしだいかつ)』のようでもある。英語ではリボーンと言う。これまでのこだわりを捨て、今在るがままの『理(ことわり)』に身を賭していく。
「冷めても、美味しい」という時熟
最近、もう一つ気づいたことがある。
家族が経営する焙煎珈琲豆のキャッチコピー、『冷めても、美味しいコーヒー』。これもまた、単なる機能的な説明ではなかった。私の中で、一つの『時熟(じじゅく)』がひらいたのだ。
「冷めても」とは、年齢を重ね、物事を冷静に見通せるようになること。「美味しいコーヒー」とは、覚知を極めることで、人生がより豊かに色づくこと。
若き日の熱狂が落ち着いたあとにこそ、真の味わい深さが立ち現れてくる。その境地こそが「冷めても、美味しい」という言葉の真意なのだと感じている。
言葉、概念、そして自分自身が掲げる理念体系(想い・使命・指針・理想・価値)の自己展開に、終わりはない。それは無限に広がり、深まり続けてゆくものなのだ。
私たちの仕事は、「正しい言葉で、理を提供する」ことだ。
その過程には、どうしても「時熟」を必要とすることが多々ある。
それでも私は、堂々と正しい言葉を紡ぎ、その道を極めていこうと思う。たとえすぐには理解されないことがあっても、自ら直に善を立て、自ずから真善美に後押しされるように生きていく。
「正しい言葉で時熟をひらき、仕事を通して生きた誇りを築き続ける」
それが、いまのところ私がたどり着いた、生きる意味かな。

















