母にかける言葉
投稿日:2025年5月29日 / 最終更新日:2025年9月23日
「八十歳になる母。電話の向こうで泣いている……。なんて声をかければいいのだろうか。」
母親が娘に、「八十歳になっちゃったよ……」とこぼした。
正直、わからない。
正直、その言葉だけでは意味を測りきれない。八十歳。そこに可愛らしさを感じるとしたら、相談者との距離はかえって遠くなってしまうかもしれない。
どんな思いが折り重なって、その一言になったのか。
その背景を、娘でさえ見通すことはできない。ましてや他人にわかるはずもない。
もしかすると、母自身にもわからないのかもしれない。ただ、誰かに聞いてほしかっただけなのかもしれない。
わかったことは、結局「わからない」ばかりだということだった。
それでも、わからないままに支えることはできる。八十歳になった母は、何かを娘に伝えたいと思っている。その事実だけでも、受け止めることはできる。そして、相談を受けた者にもまた、わかることがある。
相談者は、母の涙の意味に応えようとしている。自分のことを超えて、母のことを相談する――それは、なんと美しい営みだろう。
電話口の向こうですすり泣く母。しばらく経っても言葉を見つけられない娘。
「なんて声をかければいいのか」。その問いは、重たくも、温かなものだった。
こんな言葉が、心に浮かんだ。
「お母さん。かける言葉が見つからなかった。
ずっと考えちゃった。
それでね、やっぱり見つからなかった。
でも、私はお母さんの娘でよかった。
私も八十歳になったら、娘に泣いて電話したい。
『お前たちの母親でよかった』って、伝えたいから。
お母さん。お母さんも、そう思ってくれてる?
私たちの母親でよかったでしょう。」
もし言葉が見つからなければ、沈黙でもいい。無理に逆接を添えるより、その沈黙は優しく寄り添う。
ミーシャ・マイスキーの言葉が思い出される。
「人は、長き歳月を歩み、
人生の苦難を乗り越えていくほどに、
精神は若く、瑞々しくなっていく。」
その言葉は、苦しみの意味をようやく手のひらで受けとめはじめた者の胸に、そっと灯火のようにともる。けれど、混沌の中にある人にとっては、あまりにまぶしい光なのかもしれない。
母がなぜ泣いているのか。それは結局、誰にもわからない。母自身にもわからないのかもしれない。
けれど、生きてきた事実だけは確かにある。
誰をも、誰かに代わって問題を解決することはできない。代わってあげたくても、代わることはできない。けれど、その人を勇気づける言葉を伝えることはできる。
言葉は、命そのものだ。
あれから相談者の彼女が、母にどんな言葉を伝えたのか、それはわからない。
誰も他人を変えることができない事実。
愛を伝えることぐらいしか、不器用な私たち人間には、できないじゃないか。